ペーパーエリートは何故コミュニケーション能力が劣るのか?
私は結構コミュニケーション能力が劣っている方です.
研究報告をするときやプレゼン発表をするとき,文書作成,日常会話でもそれは常々感じますし,周囲からも指摘されます.
「『学力が長けている≠仕事ができる』であり,『研究ができる=仕事ができる』だ.今のお前はただのペーパーエリートだな.」
実際にそう言われたわけではありませんが,それに似たようなことを言われましたね.
めっちゃ悔しいです...
そういわれたのがなんか悔しくて,腹立たしくて,『学力が長けている≠仕事ができる』『研究ができる=仕事ができる』となるのは感覚的には分かるのですが,この理論になんか反対したくなりました.
で,しばらく考えてしまいました.「なぜ学力が長けても仕事には結びつかないのか」.まぁそんなのは,「仕事」は「人との共同作業であり,コミュニケーション能力が求められる」ってところに注目すれば学力だけあっても意味がないって言えるわけですが...いや,でも学力が長けている人でも,教科書の文章からの読解能力もある人もいるだろうし,他者に勉強で分からないことを教えることで説明する能力とかはあるのでは?それはコミュニケーション能力にはつながらないのか?コミュニケーション能力はあるけど潜在化されていて本人が引き出せていないだけなんじゃないか?とか微妙にこじつけて「学力とコミュニケーション能力(仕事の能力)との相関性」はあるんじゃないかと考えていました.
(このまま私がペーパーエリートであることは認めたくない...)
「コミュニケーション能力 学力 相関」でググってみましたら,はてなブログにこんな記事がありました.
この記事を読んでいて,
ブラッドフォードさんによると,人間の能力には「極めて簡単に変わるもの」と「非常に変わりにくいもの」の二つがあるそうです。
という言葉に引っ掛かりました.
「極めて簡単に変わるもの」というのは主に「口頭でのコミュニケーション能力」を指しいて,社会において重要な能力なのは当然ですが,心理学においては相当可変的な能力であると言われているそうです.
「非常に変わりにくいもの」は「IQに代表される知識,創造性,概念的能力,または根源的に持つエネルギーの大きさ,部下に対してエネルギーを補充する能力」とか...とりあえず私の中でも言っている「学力」に該当するものだと考えました.
会社に入って仕事をするとなれば,コミュニケーション能力は当然求められるので,面接においてその能力を審査するのは当然です.しかし,コミュニケーション能力は上述した通りに簡単に変えられる能力だといえるならば,採用の時点でその能力が多少欠けていたとしても,入社後の教育で何とかなる可能性があるということでしょうか.
それに対して学力全般は入社後に何とかなる能力とはあまり言えないのですね.
「社会常識」とか「他者に対する適切なふるまい(コミュニケーション能力)」というのは、入社したあとに身につけても、十分に「間に合う」可能性が高い。
仕事を教える側からすると、「読解力」「教科書を読む力」がある人のほうが、育成しやすいはずです。
学力が長けているというのは先天的な個性ともいえるわけで,その個性を活かせばコミュニケーション能力を身につけるのは容易ということでしょうか.
とはいえ,学力が長けていればコミュニケーション能力もあるとは言えないわけですね.結局,学力はコミュニケーション能力にとってあくまで伸ばしやすくするための能力であり,学力とコミュニケーション能力は全くもって別物ですね...
私的に,学力とコミュニケーション能力が分けられるのならば,高校や大学にコミュニケーション能力向上の取り組みをもっと組み込んだ方が良いと思っていました.どうせ社会に出て求められる能力がコミュニケーション能力ならば,「学力が長けている,またはそう見えているからかコミュニケーション能力が劣っていることを自覚しない者(私)」にとっては,その能力を身につける時間が形式的に欲しいです.しかし,高校や大学は「非常に変わりにくい能力」を伸ばすことを優先する場であるわけで,コミュニケーション能力は後回しになるのは当然なのかもしれないですね.(というよりかは,学力を伸ばす過程で身についていくのが普通なのかも.)
とはいえ,現段階でもインターンシップやグループワークなど,コミュニケーション能力を鍛えられる場を設けられたこともあるわけですし...コミュニケーション能力向上の取り組みが無いわけではないんですよね.
...では私は何故コミュニケーション能力が劣っているのでしょう?
成長できる場を設けられていて,それにしっかり参加しているのに何故成長できないのでしょう?その理由は,
- 自分の欠点に向き合えなかったから.(個人の心理的要因)
- 場を設けた者が適切な指導をしなかったから.(不適切な手法)
というべきなのでしょうか...
正直,言い難いですがどちらも該当しそうです.
けれど,「個人の心理的要因」は自己でどうにかできたところはあったはず...
なのにどうにもしなかったのは,自分の「心の弱さ」ってことになるのでしょうか...
コミュニケーション能力を「極めて簡単に変わるもの」と示すのも心理学の中の話でしたね.ということは私の気持ちや意地が成長の邪魔をしているということになるのでしょうか?
じゃあ,結局私のせい????
それではなんか,私が救われないです...